† ヴラド・ドラクル
>> Vlad Dracul (1390〜1447)
 ワラキア公ヴラド二世(在位1436-42,1443〜47)。母親はハンガリーの名門トマヨ家のマーラ。
 イタリアの史家ボンフィニによれば、「正義感が強く不敗の人物であり、戦いに望むと殆どの人には不可能と思われる勇気と英知を発揮し、孤立無援となっても部下の兵士たちの勇猛心を奮い起こさせ、いかなるキリスト教徒も成し遂げたことのない長期に渡るトルコ戦争を戦い抜いた」、また、1445年の遠征でヴラドと親しく知り合ったフランスの史家ヴァフランによれば「勇敢と才知の典型」と言われるほど優れた武将であったと云われる。
 幼時は、父ミルチャ老公の意向によって、近隣諸国との友好のためにモルドヴァやトランシルヴァニアの宮廷に預けられていたらしい。モルドヴァにいた頃、モルドヴァ公アレクサンドル善良公の娘と結婚。その後、ミルチャ、ヴラド三世、ラドウ三世をもうけ、他に庶出のヴラド四世とミルチャ(?)がいる。
 1431年、トランシルヴァニアのシギショアラでヴラド三世が生まれた直後、ニューンベルクの宮廷のハンガリー国王ジギスムントを訪ね、トランシルヴァニア領内のアルマシュとファガラシュを与えられると共に、ドラゴン騎士団員に叙された。ヴラドはこの騎士団に加えられたことを名誉として、これ以後の戦闘にはドラゴンの旗幟をおしたてて行動したことから、ヴラド≪ドラクル≫と呼ばれるようになった。また、ドラクルはルーマニア語で竜の意であるが、悪魔の意でもあるため悪魔公とも呼ばれる。
 当時、ドイツ国内の問題でジギスムント国王の支援を期待できない中、妻の実家モルドヴァの支援も得ながら国内の貴族と通じ、1436年ワラキアに侵攻、アレクサンドル一世(アルデヤ)を放逐し、ワラキア公となる。
 しかし、勃興期にあったオスマン・トルコのムラト二世の攻撃の前に屈服。トルコの支配を受けるようになる。しかし、1438年のトランシルヴァニア侵攻の際などに住民と取り引きを行い、住民を救おうとしたことでその忠誠を疑われることとなる。1442年、ヤノーシュ率いるハンガリー軍に敗れたヴラドはトルコに亡命、ムラト二世に招かれてガリポリに入るが、そこで身柄を拘束されてしまう。ヴラド自身は翌年には解放され、トルコの支援によって再びワラキア公の地位に就くが、同行していた次男のヴラド三世、三男ラドウ三世は人質としてエグリゴズにとどめられることとなった。
 ワラキア公となったヴラドは、反トルコを表明してヤノーシュ・フニャディらと協定を結んでキリスト教同盟軍に参加。1443年には長男ミルチャの活躍によって、父ミルチャ老公が築いたジウルジウ城塞を奪還する。しかし、翌年のヴァルナにおける戦いで大敗を喫したことから、総指揮官であったヤノーシュを批判して指揮官を解任、蟄居させてしまう。
 1447年、国王を失ったハンガリー国内の混乱を収拾して摂政となったヤノーシュの攻撃を受けて長男ミルチャと共に首都を脱出するが、ブクレシュティ近郊バルテニの沼沢地にある修道院の敷地内で国内の地主貴族に捕らえられ、惨殺された。




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