ミルチャ老公
>> Mircea cel Batrin (?〜1418)
 ワラキア公ミルチャ一世(老公)(在位1386-1394,1397-1418)。当時のドイツ年代記によれば「キリスト教信徒の君主の中で最も勇敢にして有能な人物」と評された人物。これまで公国史上最大の版図と権力を有した公でもあり、1404年に「全てのウングロ・ワラキア領、山脈を越えてタタール諸地域に達する領土、さらにアルマシュおよびファガラシュの両地域の大ヴォエヴォド及び君主であり、セヴェリン・バナート、全ポルナヴィアの両側と大洋に達する地域までの大ヴォエヴォおよび君主であり、またデウルストル要塞の支配者である」と宣言している。孫のヴラド三世(串刺し公)は彼の治世を模範として見習い、君主の権力を回復しようと考えることとなる。
 ミルチャは、安定した政権基盤と経済力を十分に利用して政治機構を整備、外国商人に特権を与えて商業活動を促進させて貿易の振興にも力を注いだ。また、経済発展のために銀貨を鋳造。これは周辺諸国でも使われるようになり、バルカン地域でのワラキア公国の存在感を高め、国力を充実させることとなった。
 更にその国力を用いて軍事的にも勢力を拡大。ドナウ河沿いのジウルジウ城塞を補修。地主貴族の私兵に頼るのではなく、新たに公が独自に運用できる常備軍を編成した。ミルチャ自身は前線では勇猛果敢、部下の信頼も厚く、歴戦の勇将としても知られ、相次いでトルコ軍に勝利してトルコ軍の進攻を停滞させた名将であった。
 外国面では、モルドヴァの公位継承争いに介入して息子ヴラド二世の舅となるアレクサンドル善良公を即位させ、その仲介によってポーランド王ヴラディスラフ・ヤギェウォと同盟を結び、後にヴラド二世をドラゴン騎士団に加えることとなるハンガリー王ジギスムントとも緊密な関係を作り上げている。
 1403年、ティムール帝国軍の攻撃によって捕囚となっていたスルタン・バヤジットの死去によって、起こった後継者争いに三男ムサを支援して積極的に介入する。ムサは一時権力を奪取するが、セルビアに対する報復や甥にあたるオルハンに対する残虐行為などからトルコ軍部の支持を失って内部崩壊。唯一人残っていたメフメトに殺害されてしまう。1413年、メフメト一世が五代目スルタンに即位し、十年の空位を終わらせて国家再建が行われることとなった。メフメト一世は翌年から再びバルカン侵攻を開始、ダーダネルス海峡入口の制海権を取り戻し、ボスニアに要塞を建設するなど、旧領を回復して更に膨張政策を続ける。その圧倒的な軍事力を前に、ミルチャは貢納金を支払うことで和平を求めたが、臣従することはなかった。
 1418年に死去。息子のミハイ一世、ヴラド二世、甥のダン二世によって公位が争われることとなる。




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