ラドウ三世 (Radu cel Frumos)
(1438〜1500)

 ワラキア公ラドウ三世美男公(在位1462-1473,1473-1474,1474-1475)。ワラキア公ヴラド二世(ドラクル)の三男。
 1442年、父ヴラド二世がガリポリでトルコに捕らえられた際に共に捕らえられ、兄ヴラド三世と共にエグリゴズに送られた。しかし、1448年に兄ヴラドが解放されてワラキア公となっても、彼が解放されることはなくその外見からスルタンの寵愛を受けていたらしい。
 1462年、トルコ軍の侵攻に随軍し、軍が撤退した後にはトルコから軍を分け与えられてワラキア南部ブクレシュティに駐留。地主領主の地位を奪うことになる完全支配領への編入から、ラドウ三世の下での単なる臣従国とするというスルタン・メフメト二世の友好的な意向を伝えて地主貴族を糾合、親トルコの政策を掲げて勢力の拡大を図った。更にラドウ三世を名乗ってワラキア南部を支配、ヴラドの亡命と逮捕によって、ワラキア全土を支配することとなった。トルコに対しては臣従国として従い、ハンガリーに対しても忠誠を誓うことで緩衝地帯としてバランスを取る政策は国内の地主貴族にも支持され、十年近く統治を続ける。
 しかし、モルドヴァのシュテファン大公とは、親トルコ政策、要衝キリアの帰属問題などで常に対立していた。それに対してシュテファン大公はダネスティ家のライオタ・バサラプ、トランシルヴァニア領主シュテファネス・バートリはその息子バサラプ・ツェペルシュを推し、トルコの支援を受けるラドウ三世と三者が公位を奪い合うこととなる。
 1475年には、ライオタ・バサラプによって三度目の公位から追われ、トルコに逃れたようである。