マチャーシュ一世 (Hunyadi Matei(Matyas))
(1440〜1490)

 ハンガリー国王マチャーシュ一世(正義王)(在位1458〜1490)。ハンガリーの摂政だったフニャディ・ヤノーシュの子。ラテン名コルヴィヌス(Corvinus)はフニャディ家の紋章である烏(corvus(コルウス))に由来する。
 1440年、トランシルヴァニアのコロジュヴァール(現クルージュ・ナポカ)でフニャディ・ヤノーシュの次男として生まれる。1456年、父フニャディ・ヤノーシュがペストで死去すると、貴族間の内紛で兄ラースローが処刑されてしまう。その結果、1458年大貴族に対立する中小貴族の支持により国王に選出され、賢臣ビテーズ・ヤノーシュの助言を得て、常備軍の創設、官僚の育成による中央集権化を進める。
 トルコの脅威に対してワラキア公ヴラド三世(ツェペシュ)と同盟を結び、1460年にはローマ教皇から十字軍参加を督促されて多額の金貨を与えられるが動くことなく、ヴラド三世がメフメト二世の侵攻を撃退するも、弟ラドウ美男公と国内貴族に追われてハンガリーに亡命するとトルコへ内通という名目で逮捕。ヴラド三世の勝利は自身の勝利と宣伝する一方、ヴラドの残虐性を喧伝して逮捕を正当化している。しかし、その後は妹マリアと結婚させ、ヴラド三世の身柄を宮廷に置くなど自由な行動を許していた。
 1476年、再び訪れたトルコの脅威の前にヴラド三世の復位をモルドヴァのシュテファン大公と同意し、トランシルヴァニア軍を動かして協力した。
 一方ではオスマン・トルコ勢力と、他方ではハプスブルク家およびポーランドのヤギュウォ家の勢力と対抗しつつ、ハンガリーを中欧帝国にしようとし、1468-85年に対チェコ、オーストリア遠征、85年には一時ウィーンを占領するなど、ハンガリーにおけるもっとも偉大な支配者の一人とされる。
 人文主義者としても知られ、学芸を保護してブダの華麗な王宮に国外から多数の人文主義者や芸術家を招き、有名なコルヴィナ文庫をつくり、ポジョニ(現スロバキアのブラチスラヴァ)に大学を設立。ハンガリーをアルプス以北のルネサンスの最大中心地とした。


(1) 現在のハンガリーの1000フロリン紙幣の肖像がマチャーシュ正義王である。
(2) 兄ラースローの処刑にまつわる物語を題材にしたオペラ『フニャディ・ラースロー』という作品がある。
(3) マチャーシュは身分を隠して国内を回ったという伝説がある他、終末の前に最後の王として甦るまで眠っているという伝説もあるようだ。