ロンギヌス (Longinus)
(?〜A.D.58頃?)

 聖人。『ヨハネによる福音書』において、十字架に架けられたイエスのわき腹を槍で刺したとされる兵士(ヨハ19:34)。

 ニサンの月の安息日の前日、イエスが十字架に架けられると太陽は光を失い、イエスが息を引き取ると神殿の垂れ幕は二つに裂けた。これらを見た百人隊長は「この人は神の子だった」と言って(マタ27:54、マコ15:39)神を賛美した(ルカ23:47)。翌日が安息日であったため、ユダヤ人たちの願いによって罪人の足の骨を折って死期を早めてから遺体を十字架から取り降ろそうとしたが、イエスは既に息絶えており、兵士の一人が死を確認するために槍でイエスのわき腹を刺すと、そこから血と水が流れ出た(ヨハ19:31-37)。ロンギヌスとはこの兵士、或いは百人隊長と兵士が同一視されたもので、死の直前の徴を見てキリストを信じるようになり、槍を伝わった血が偶然彼の眼に入ってその弱っていた眼が視力を回復したことで更に信心深くなったのだという。(『黄金伝説』)

 槍兵ロンギヌスはすぐにローマ兵士の身分を捨てて使徒たちの教えを受けると、カッパドキアのカイサリアで28年に渡って修道士のような生活を送り、多くの人々を改宗させた。
 58年頃、カイサリアでその信仰から裁判官に捕らえられて歯と舌を抜かれたが言葉を失わず、逆に斧で神々の像を打ち砕くと、像に宿っていた悪霊が裁判官にとりついて裁判官たちは正気を失った。ロンギヌスは、自分が殺されたら神に頼んで健康を取り戻させようと告げたので、裁判官はロンギヌスの首を刎ねさせた。後悔した裁判官がロンギヌスの遺体の前にひれ伏すと、裁判官は正気を回復し、その後は善行を積んだという。
 聖人としてのロンギヌスよりも、“救世主(キリスト)”の血を吸った聖遺物としての『聖槍』が有名。(7)に長期に渡る伝説はあるが、形状は通常ローマ兵が持つ一般的な槍であったろう。
 稀に誤解があるが、息絶えたと思われるイエスの死を確認するために槍が突き刺されたのであって、イエスが槍で殺された訳ではない。


(1) 『ニコデモ福音書』(『聖書外典偽典6』ギリシア語A型)では、最高法院(サンヘドリン)の会議においてアンナとカヤパの台詞として、ロンギノス(ロンギヌス)という兵隊がイエスの脇腹を槍で突き刺したという一文がある。『黄金伝説』の訳注によると、十字架の下にいた百人隊長とする写本もあるようだ。ギリシア語B型か、異本になるのだろうか。
初代教会によってロンギヌスという名が与えられたようだ。ギリシア語の槍を意味する「ロンケー」に由来するとも、ラテン語の長いを意味する「longus」に由来するとも云う。目が治ったという伝説から盲目とも白内障ともされるが、盲目では兵士は務まらないだろう。『ロンギヌスの槍』『ヒトラーとロンギヌスの槍』ではいずれも高齢と視力の衰えから後方任務についていたとされている。
(2) 祝日は3月15日。現在は聖列から外されているが、サン・ピエトロ大聖堂内部にはベルニーニ作のロンギヌスの彫像がある。
(3) イエスの死を前にして太陽が光を失い、神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こったという記述は、異同はあるもののマタイ、マルコ、ルカには記されているが、ヨハネにおいては奇跡的なことは何も起こっていない。また、イエスの最期の言葉はマタイとマルコによれば大声、ルカによれば「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」、ヨハネによれば「成し遂げられた。」であったとされる。
(3) イエスの骨が折られず、槍で刺されたという事実が「その骨を折ってはならない(出エ14:46)」「いけにえの骨を折ってはならない(民数9:12)」、「彼らは、彼ら自らが刺し貫いたものであるわたしをみつめ(ザカ12:10)」といった預言の成就とされる。
(4) わき腹から流れた水は、胸水と心外膜液、あるいは死後分離した血清とも考えられる。
(5) ロンギヌスは、絵画ではキリスト磔刑図に描かれ、馬に乗り槍を持った兵士の姿で描かれる。
(6) 聖槍とされる槍の穂先は、ヘレナ大后が発見し、聖十字架やヴェロニカの布と共にヴァティカンに、またオーストリアのホーフブルク宮殿にも「聖釘」を埋め込まれ金のカバーで補強された槍の穂先(八世紀カロリング朝時代の製作という)が保管されている。アルメニア正教会のエチミアジン大聖堂やポーランドのクラクフ(ホーフブルク宮殿の複製で十世紀頃の作成という)にもあるようだ。
(7) 伝説によれば、カインの七代目の子孫である鍛冶師トバル・カインの願いによってアララト山に天から金属の塊が落ちた。それを鍛えてできた剣と槍は、それ自体が光を発し、錆びることも鈍ることも無いと云われた。神の言葉によって遠くの地の山の中、エフライムの山地の岩の裂け目に剣と槍を投げ込んだ。
 それから二千年。左利きのエフド(士師3:15)は剣と槍を見つけ出し、その剣でモアブの王エグロンを刺し(士師3:21)、牛追い棒(に見立てた槍)でペリシテ人六百人を撃ち殺した(士師3:31)。その後、ギデオン、エフタ、サウル、ダビデ、ソロモン、アハブらに受け継がれ、前715-686年まではユダの王ヒゼキヤの元にあった。その後、マカベヤ家からハスモン王朝に受け継がれ、前100年頃ハスモン朝の王アレクサンドル・ヤンナイオスは永遠に剣と槍を所有するため、山の頂上にある砦にそれらを塗りこめた。前63年ローマの将軍グエナウス・ポンペイウスの部下が剣と槍を発見してローマのカエサルに贈られた。そして、ガリア征服の際、槍は勲功を上げた兵士ガイウス・カシウスの祖父に与えられ、ユダヤの地でイエスの処刑を行う百人隊長ガイウス・カシウスに伝えられる。彼はカファルナウムの百人隊長(マタ8:5-13、ルカ7:1-10)だともされ、部下を癒してもらったことからキリストに帰依していたという。(剣については、槍と共に下賜され、カシウスから剣を借りた使徒ペトロの手によって大祭司の手下の耳を切り落とし、後にキリスト教徒からクラウディウス帝に献上されたとも、カエサルからブルータスに与えられてカエサル暗殺に用いられ(カエサル暗殺の首謀者の中にも、ガイウス・カシウス・ロンギヌスという人物がいる。ここから逆に兵士の名前となったのかもしれない。)、代々の皇帝からクラウディウス帝に伝えられたとも云われる。)
 その後、槍はカシウスの子孫である聖マウリティウスに伝えられるが、マウリティウスは286年のガリア遠征の際にキリスト教徒の反乱軍鎮圧を拒否。彼の率いるテーベ軍団6666人の部下と共に反逆者として斬首刑に処される。槍は指揮官であったマクシミアヌス帝から娘の夫であるコンスタンティヌス帝に結納品として贈られ、一時は東ローマ帝国のテオドシウス二世(401〜450)から賠償金の一部としてフン族の王アッティラ(406?〜453)の手に渡ったが、カタラウヌムの戦い(451)で多くの被害を受けるが、西ゴート王テオドリクス一世の命を奪い、更にローマへ転進。大教皇レオ一世(390〜461)の説得と多額の賠償金を受けて撤退する際に槍を叩きつけて捨てたとされる。但し、この時代の槍の所有者には異同があり、テオドシウス帝がゴート族を征した際にその手にあり、ローマを略奪した西ゴート王アラリクスが槍の所有者となってキリスト教に改宗、ローマ帝国のアエティウス(390?〜454)の手から、テオドリクス一世が槍を持ってゲルマン諸部族を糾合、カタラウヌムの戦いでアッティラを撃退したともいう。(『ロンギヌスの槍』)
 (歴史的に登場するのはこの頃から)八世紀にはフランク王国のカール・マルテル(688?〜741)、孫のカール大帝(一世・シャルルマーニュ)(742〜814)(名剣ジュワユースの柄に槍の穂先が納められたという)へと渡り、王冠や王錫といった王の徴と共に代々神聖ローマ皇帝に引き継がれる。(ザクセン公ハインリッヒ一世(876〜936)からイングランド王エセルスタンへと贈られ、再びエセルスタンの妹の結納品としてオットー大帝(一世)(912〜973)に戻ったともされる。)オットー大帝は聖マウリティウスの槍をもってマジャール人を打ち破ったと伝えられる。(以来マウリティウスはドイツの守護聖人となる。)次いでオットー三世(980〜1002)の代になって、聖釘が槍に埋め込まれ、ハインリッヒ四世(1050〜1106)によって銀の補強カバーが付けられた。(フランス公ユーグからイングランド王エセルスタンの妹への結婚の申し込みの際、聖釘を埋め込んだ剣、聖槍、聖マウリティウスの聖旗などが手土産として持ち込まれたとも云われる。)
 赤髭王フリードリッヒ一世(1122〜1190)は、1189年に槍を携えて十字軍を率いるが、翌年に溺死。槍はチュートン騎士団の手に託されたものの、1241年にモンゴル軍の襲来を受けて耐え切れなくなった騎士団から神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世(1194〜1250)に贈られる。
 1806年、ドイツ帝国はナポレオン(1769.8.5〜1821.5.5)の手によって滅亡。槍は密かにオーストリア皇帝フランツ一世(=神聖ローマ皇帝フランツ二世)(1768〜1835)に贈られ、ホーフブルク宮殿に安置される。(『ヒトラーとロンギヌスの槍』)
(8) アーサー王伝説における漁夫王の槍との関連については?
(9) 『ニコデモ福音書』によれば、イエスとともに十字架に架けられた罪人は、デュスマスとゲスタスという名であったとされる。悪態をついたのがゲスタス、私のことを思い出してくれるようにと言ったのがデュスマス。
(10) イタリア北部マントヴァの守護聖人。
(11) 第一回十字軍の時代(1098)アンティオキアで聖槍が発見され、士気上がる十字軍はサラセン軍に対して勝利を収めたという話もある。