ヨハネ (John)
(?〜A.D.70頃?)

 十二使徒。ガリラヤ湖の漁師ゼベダイの子で大ヤコブの弟。『ヨハネによる福音書』の記者、『ヨハネによる黙示録』の著者、『ヨハネ』における「イエスが愛していた弟子」とも同一視される。

 ペトロとアンデレがイエスに導かれた直後、父ゼベダイと兄弟のヤコブと共に舟の中で網の手入れをしている所を通りがかったイエスに呼ばれ、舟と父親(と雇い人(マコ1:19))を残してイエスに従った(マタ4:21)。
 イエスの名において悪霊を追い出している者をやめさせ(マコ9:38)、イエスを歓迎しないサマリア人に対し「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカ9:53)」と言葉をかけるなど、ボアネルゲス((「雷の子ら」とされるが正確には不明))という異名(マコ3:17)の通り、激しい性格の持ち主であったと云われる。その後も、ペトロ、ヤコブと共にイエスの道行きに多く伴われ、イエスが捕らえられる直前も、共にゲツセマネで祈るイエスを待つように言われるが、眠り込んでしまった。

 ヤコブとヨハネの母は、イエスが王座につく際に二人の息子がその両側に座れるようにと懇願した(マタ20:20)。また、ヤコブとヨハネ自身が願ったとも云われる(マコ10:35)。

 「イエスの愛した弟子」は、最後の晩餐ではイエスの隣で誰が裏切るのかを問い掛け(ヨハ13:23)、イエスが十字架にかけられた際には、その側に立って母マリアの世話を託された(ヨハ19:26)。また復活の朝にはマグダラのマリアの報せによって空になった墓をペトロと共に覗き(ヨハ20:3)、ティベリアス湖畔で復活した主と会った七人の一人となる(ヨハ21:2)など、『ヨハネ』の物語の中心として多く登場するが、これは弟子の理想像ともヨハネ・マルコ(『マルコ』の著者)とも云われる。

 イエスの死後はエルサレム教会の三本の柱の一人として重きをなした。伝承によれば、66年頃小アジアに伝道に赴いて多くの教会を建て、ドミティアヌス帝(位81〜96)の治世にローマのラティナ門外で煮えたぎった油桶に入れられたが火傷せずに出てきたため、パトモス島に流されてそこで『黙示録』を執筆したとされる。しかし、皇帝が弑逆されたことで罪が取り消されて再びエフェソに戻った。
 エフェソではアルテミス神殿を倒壊させ、怒った祭官たちに毒入りの杯を与えられて信仰を試されたが、杯に手を触れると毒が蛇となって去り、また、同じ毒を飲んだ囚人をアルテミス神の祭官に生き返らせたことで彼らをキリスト教に改宗させた。祭官たちは神殿のあった場所に教会を建てて使徒に捧げたと云う。
 ここで福音書と三通の手紙を書き、トラヤヌス帝(位98-117)の頃、99歳となり自らの死を悟ったヨハネは教会の祭壇の横に穴を掘らせ、自ら墓穴に入って魂を天に引き渡したと云う(ヨハネ行伝)。また、その墓はダマスカスにあるとも云われる。


(1) 三福音書で十字架の下にいた女性が同一人物であるとすると、母はイエスの母の姉妹サロメであり、イエスの従兄弟となる。
(2) 祝日は12月27日。
(3) 名前はヘブライ語「ヨハナン(ヤーウェは恵み深い)」のギリシア語形。
(4) 伝承の通りだとすれば、使徒中で最も長生きしたことになるが、その頃の記述に彼の名は残っていないことなどから、70年頃エフェソで亡くなり、黙示録はヨハネに連なる弟子が書いたのではないかと思われる。
(5) 聖書中には『ヨハネによる福音書』『ヨハネの黙示録』『ヨハネの手紙一・二・三』が含まれ、使徒ヨハネの作とされるが、いずれも名を借りただけのようだ。
(6) 四元の水とそれの象徴する鷲の他、蛇の入った聖杯、油桶、本や羽根ペンなどを標章とする。
(7) 絵画では、イエスに寄りかかる若者の姿で描かれることが多いらしい。「愛した弟子」が髭面ではマズかったんだろうか(笑 他に執筆中の老人の姿で描かれることもある。
(8) ヨハネ・マルコとは、『マルコによる福音書』の著者で、パウロやペトロの助手として働き、バルナバの従弟であったとされる。
(9) クラトンという哲学者がある青年に全財産を宝石に変えさせ、それを打ち砕いてこの世を軽蔑しなくてはならないと説いていた時、ヨハネはそれを無意味だとして宝石を元に戻し、貧しい人に施させた。また、それを見て財産を売り払った青年がかつての下僕が高価な衣服を着ているをの見て羨ましがっているのをみて、若枝と小石を金と宝石に変えた。しかし死から甦った若者があの世で失った天国と地獄の責め苦を語ったことから、慈悲を求めて30日の間祈った。すると、金と宝石は元の若枝と小石に戻り、彼らは失ったものを再び得たのだという。