イエス・キリスト (Jesus Christ)
(B.C.4頃〜A.D.30頃)

 約20億人の信徒を持つキリスト教の「神」であり、十字架上の死によって全人類の原罪(アダムとイブの楽園追放に由来する、人が生まれながらに負っている罪)を贖ったとされる「救世主(キリスト)」。

 B.C.(Before Christ)4年頃、中東イスラエルの町ベツレヘムかナザレでユダヤ人の大工(建設業者)ヨセフと妻マリアの間の子として生まれたユダヤ教の革命的思想家。キリスト教の伝承によるとヨセフの子ではなく、ヨセフの許嫁であった処女マリアが聖霊によって受胎したとされる。
 30歳の頃、洗礼者ヨハネによって水の洗礼を受けた後に独立して自ら伝道を開始。40日に渡って荒れ野をさまよった後、独特の教えと数々の奇跡で多くの弟子をその下に集めるが、旧来の律法主義を否定した事から当時支配的だったファリサイ派などユダヤ教主流派たちの反感を買うことになる。
 紀元30年頃の過越祭の頃に側近の弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りに遭い、祭司長に捕らえられてユダヤ総督ポンテオ・ピラトの元に送られた。裁判においては特に罪科に問うべきことは無かったが、ユダヤ人たちの熱狂の押し切られる形で、ユダヤの王を僭称した罪で死刑を宣告され、ゴルゴダ(しゃれこうべ)と呼ばれるところで十字架刑に処せられた。
 通常より短い数時間で絶命したイエスの遺体は、翌日(その日の日没から始まる)の安息日を避けてその日の夕方には早々に下げ渡され、議員でもあった弟子アリマタヤのヨセフらによって近くの墓地に埋葬された。しかし、30数時間後の翌々日の朝には遺体は姿を消しており、その後イエスが弟子たちの前に姿を現して世界中への伝道を命じたとされる。イエスをキリストとみなした弟子たちによってキリスト教会が成立する。

 イエス自身に関する情報は非常に少なく、福音書でも誕生と『ルカ』で少年時代が一度語られる他は、1年弱の宣教期間とそれに続く十字架の死しか語られておらず、キリスト教徒に伝わる『聖書』などの他は、イエスという人物が居たらしいという以上の情報は無い。
 キリスト教と血との関わりは深い。ユダヤ教においては、『申命記』や『レビ記』に代表されるように血は命とされ、捧げ物の血は地面に流さなければならないなど、厳密に処理の方法が規定されていた。しかし、イエスは葡萄酒を自らの血としてそれを飲むようにと弟子に告げ、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(『ヨハネ』6:53)」と述べている。
 聖体(聖餐)と呼ばれる葡萄酒とパンの拝領に対しては、カトリックと正教会はパンと葡萄酒がキリストの肉と血に変化するという実体説、ルター派や聖公会においては共在説、長老派などでは象徴説を採るなど相違はあるものの、キリストの血と肉として信徒たちに配られている。血の代わりとして葡萄酒を飲む儀式はミトラ教から受け継いだ節もあるが、血を飲むという行為を文字通りの意味で受け取れば、犠牲者の血を飲むことで命を取り入れる吸血鬼が創造されるのは当然の帰結だろう。逆に、そうして自らの教義から生み出した吸血鬼を退治するとされているのも、十字架や聖水などキリスト教会の権威である。
 ローマ帝国によるキリスト教公認以前には、キリスト教徒が生け贄を捧げてその血を飲むという話が流布したり、また逆に後世のキリスト教社会においては、ユダヤ人がキリスト教を侮辱するためにキリスト教徒の血を飲んだり、嬰児の血を混ぜたパンを食べたというデマがユダヤ人迫害の根拠とされたこともある。
 キリストの血が関わる物として、幾つかの聖遺物が挙げられる。『ヨハネ』においてイエスの死を確かめるためにわき腹に突き刺された「聖槍」、その体を十字架に打ちつけた「聖釘」、十字架に架けられたイエスの血を受けたと云われる「聖杯」、頭に被らされたという「荊の冠」、埋葬の際に遺体を覆ったという「聖骸布」、あるいは着ていた服である「聖衣」、埋葬の時に頭を覆ったという「スダリオン」など。なお、「トリノの聖骸布」にはAB型の男性の血液が付着していることが確認されている。他に十字架に架けられたイエスの血が石の上に落ちてできたのが鉱物のブラッドストーン(血石(赤い斑点のある碧玉))だという伝説もある。
 また、イエス自身ではないが、イエスが負った傷と同じ場所(荊の冠による頭部、釘による掌(または手首)と足、槍による脇腹)と同じ場所から原因不明の血が流れる「聖痕(スティグマ)」現象や、イエスやマリアなどの絵画や像が血の涙を流す現象がある。

 死との関わりについては、まずキリスト教信仰の根幹であるイエスの復活が挙げられる。安息日の前日に十字架刑に処せられたイエスはその日の夕方に墓に埋葬されたが、翌々日の朝にはその遺体は姿を消していた。その後、多くの弟子たちの前に現れて伝道を命じた後、肉体と共に天に昇ったとされる。これには死体をキリスト教徒が盗み出したという話から、十字架上では死なずに墓で蘇生したという説、十字架上で口にした薬による仮死状態だったという説などがあり、その後はローマや南フランス、果ては日本の青森にまで辿り着いたという伝説もある。また、『ヨハネ』ではベタニアのラザロという病人のもとに赴き、埋葬されてから4日経っていたラザロに起きるように命じることで蘇らせたとされる。この時イエスは、ラザロの病気を知ってからも、その死を待つかのように2日も同じ場所に滞在し、「彼を起こしに行く」と言ってベタニアに向かっている。

 命の血を飲むことを命じ、死からの復活を遂げたイエス・キリスト。死からの復活を遂げ、命の血を求める。イエスの転倒的存在が吸血鬼である。


(1) その活動時間は、福音書の内容から1年弱か3年弱程度と考えられ、ヨセフス(37頃〜100頃)の『古代誌』に記述がある他は、タキトゥス(55頃〜120頃)や小プリニウス(61〜112)にキリスト教徒の存在が、またユダヤ人の『ミシュナ』の補遺である『バライタ』『トセフタ』にイェシューの記述があるに過ぎず、彼の存在については不明な点は多い。
 生年は、福音書間の記述と史実とは一致しない。ヘロデ王の治世はB.C.4年にその死によって終わり、シリア総督キリニウスによる人口調査が行われたのは、B.C.8年に行われたローマ帝国全土の国勢調査か、ユダヤ・イドマヤがヘロデ・アルケラオスの追放によって同盟国から属州に変わったA.D.6年以降であると考えられる。フラヴィウス・ヨセフスA.D.6年の国勢調査を前例の無いできごととして伝えていることから、『ルカ』に記された年代とは矛盾が生じる。生まれた日についても12月25日はユリウス暦やミトラ教の冬至に当たり、他の聖人の祝祭日と同じように異教の祭日がキリスト教に取り入れられたものと考えられる。
 父ヨセフは、聖母マリアが終世処女であったという信仰から、若い男性ではなく老人であったとされ、イエスの兄弟と呼ばれる者たちについてもヨセフの連れ子だとされる。時期は不明だが、マリアが処女(パルテノス)であったとされたことから、父の名がパンテラ(山猫)という名のローマ兵士だったという話もある。これについてはその名前から作り話と考えられていたが、ドイツでパンテラという名のローマ軍の射手の墓が発見されている。『マルコ』では「マリアの息子ではないか」という記述があり(『マタイ』では大工の息子、『ルカ』ではヨセフの息子となる)、父親の名を呼ばれない特異な出生を窺わせる。
 没年についても福音書の内容は一致しない。総督ピラトの任期からA.D.27〜36年の間と考えられるが、『ルカ』で洗礼者ヨハネによる受洗はティベリウス帝の第15(A.D.29)年としているが、同時に他の共観福音書が1年と暗示している宣教期間を3年と暗示している。没年はA.D.30年か33年、36年のいずれかであろうと考えられている。また、共観福音書では除酵祭の第一日(ニサンの15日)に過越の食事を行った後の準備の日(金曜)に磔刑が行われたとされているのに対して、『ヨハネ』は磔刑を特別な安息日(除酵祭の日・ニサンの15日)の前日である14日の金曜日としている。これについてはマタイ、ルカの基となったマルコが間違えたとも、ヨハネがイエスを過越で屠られる羊になぞらえるために過越の準備の日にしたとも考えられる。
(2) 1982年1月、セブンス・デイ・アドバンティスト教会のロン・ワイアットという探検家がゴルゴダの丘の地下にあった契約の櫃の上に母親の遺伝子しか持たない半数体の血液を見つけたという話もあった。(『契約の櫃』ジョナサン・グレイ:著/徳間書店)
(3) 聖杯は、最後の晩餐で使われ、十字架に架けられたイエスから流れ落ちる血を受け止めたと云われるが、イエスの血を入れた器、つまりイエスの血を継ぐ子供を孕んだ女(マグダラのマリア)の比喩や聖骸布など血の付いた何かと考える説もある。尚、聖杯については伝説の中でケルト(ガリア)の神話に語られる豊穣と再生、叡智を無限に生み出すというダグザの大釜と結び付き、『アーサー王伝説』にも登場する。但し、元々の出典が不明。
(4) イエスが渡来したとされるのは青森県の戸来村(現:新郷村)。十字架に架けられたのはイエスの弟のイスキリであり、イエスはシベリアからアラスカを経て日本に辿り着いたとされる。昭和12年に山根キクの『光は東方より』によって流布した。戸来(ヘライ)はヘブライに由来し、「ナニャドヤラ」という意味不明の踊り歌はヘブル語で解釈が可能だという。
(5) 磔刑図で描かれる「INRI」とは、十字架の上に掛けられた罪状書き「Iesvs Nasarenvs Rex Iudeaorvm(ナザレのイエス、ユダヤの王)」の頭文字を取ったもので、『ヨハネ』によるとヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書いてあったとされる(尚、ラテン語では「I」と「J」、「V」と「U」の区別がなかった)。『マタイ』では「これはユダヤ人の王イエスである」、『マルコ』では「ユダヤ人の王」、『ルカ』では「これはユダヤ人の王」と書いてあったとされる。
 また、魚がキリストの暗示として用いられるのは、「Ιησομζ Χριστοζ Θεου Υιοζ Σωτηρ (Iesous, Christos, Theou Huios, Sotor・イエス、キリスト、神の子、救い主)」の頭文字がギリシア語の「ΙΧΘΥΣ(ichthys・魚)」になるため。
 他に、生贄の子羊や、自らの血で子供を養うと考えられたペリカンなどもキリストの象徴とされる。