大ヤコブ (James the Great)
(?〜A.D.44頃)

 十二使徒。ガリラヤ湖の漁師ゼベダイの子。アルファイの子ヤコブと区別して、大ヤコブ、年長のヤコブと呼ばれる。また、ヨハネと共にボアネルゲス(「雷の子ら」とされるが正確には不明)という異名を持つ(マコ3:17)。自ら主の両脇に座ることを望んだり、イエスを迎えようとしないサマリア人を焼き滅ぼそうかと発言する野心的で激しい性格であったためとも、流暢な弁舌の持ち主だったためとも云われる。

 ペトロとアンデレがイエスに導かれた直後、父ゼベダイと兄弟のヨハネと共に舟の中で網の手入れをしている所を通りがかったイエスに呼ばれ、舟と父親(と雇い人(ルカ))を残してイエスに従った(マタ4:21)。
 ペトロ、ヨハネと共にイエスに伴われることが多く、イエスが捕らえられる直前も、共にゲツセマネで祈るイエスを待つように言われるが、眠り込んでしまった。

 ヤコブとヨハネの母は、イエスが王座につく際に二人の息子がその両側に座れるようにと懇願した(マタ20:20)。また、ヤコブとヨハネ自身が願ったとも云われる(マコ10:35)。

 イエスの死後、ガリラヤで伝道を行ってその地ののキリスト教会の首班となるが、過越祭の頃にヘロデ王(アグリッパ一世)の迫害によって捕らえられ、剣で殺された。彼の死はユダヤ人に喜ばれたとため、更にペトロが捕らえられることとなる(使徒12:1)。十二使徒の中では最初の殉教者。

 ユダヤとサマリヤで伝道した後、主の言葉をより広く伝えるため、スペインに渡ったが成果が上がらず、弟子となった僅か九人のうち二人を伝道のために残してユダヤへ帰った。ヨハネス・ベレトによれば弟子となったのは一人だけだったともいう。ユダヤに戻った大ヤコブは、魔術師ヘルゲモネスと弟子のベレトスを改宗させたが、3月25日に吻首されたという。遺体は7月25日にコンポステラに移され、12月30日に埋葬されたため、各地で祝うのに都合の良い7月25日が祝日とされた。ヨハネス・ベレトによれば、斬首された大ヤコブの遺体は弟子たちによって持ち出され、風のままに船を進ませると、船はガリシア(スペイン)に漂着した。遺体を大きな石の上に置いたところ、石は自然と棺の形になったという。その地の女王ルパによる悪意にもかかわらず、神の奇跡により危機を乗り越えた弟子たちを見た女王は改宗して宮殿を聖ヤコブ教会とし、それが現在のサンティアゴ大聖堂の前身だとされる。(『黄金伝説』)
 墓の場所はサラセン人の征服以来不明となっていたが、813年に一つの星が現れたのをきっかけにスペイン北西端にある洞窟にその墓が発見され、アルフォンソ二世童貞王(位792-842)によって教会が建てられ、サンティアゴ(聖ヤコブ)・デ・コンポステラ(星の野)として三大巡礼地の一つとなっている。十一世紀には聖遺骨が再発見され、十二世紀には『聖ヤコブの書』というヤコブ伝説の集大成がまとめられた。


(1) ヤコブとは、「神は守られる(ヤークブエール)」の短縮形と云われる。
(2) 三福音書で十字架の下にいた女性たちが同一人物であるとすると、ゼベダイの子らの母、サロメ、(イエスの)母の姉妹(クロパの妻は別人と考える)が同一人物と考えられ、大ヤコブの母はイエスの母の姉妹サロメであり、ヤコブはイエスの従兄弟となる。(関係については小ヤコブも参照)
(3) 祝日は7月25日。
(4) 大天使ミカエルと共にスペインをサラセン人から解放したスペインの守護聖人であり、馬上で槍を持った姿で描かれることも多い。
(5) 巡礼の保護者であり、水を飲むためのホタテ貝を標章とした巡礼姿でも描かれる。十二世紀以降エルサレムへの巡礼が危険になってからは、サンチャゴ・デ・コンポステラは西欧最大の巡礼地であり、ヤコブの標章であるホタテ貝に唾広の帽子、合羽を着て巡礼杖を持った巡礼者が徒歩でスペイン西端に向かう姿は現在でも見られる。1589年には英国のドレイク提督による略奪を恐れた司教が聖遺骨を隠匿し、所在不明となったために巡礼の足は遠のいたが、1879年に再々発見された。
(6) 大ヤコブの遺体によって変形した石というものがコンポステラの町に現存する。異教の祭祀にでも使われたらしいということなので、そこから逆に創作されたものだろう。